エピソード045 <この言葉、知っていますか?>

 ・・・職安通り・・・

  夕方、いつものように新大久保に飲みに行こうとタクシーを止めたところ、ドライバーは若い女性でした。聞けば25歳。新卒でタクシードライバーになったということです。「ご指定のルートはありますか」「うん、大久保通りは混むから職安通りからお願いします」「承知しました。・・・でも、 『職安通り』って面白い名前ですよね。八重洲とかと同じで、昔この辺に住んでいた外国人の名前とかが由来なんでしょうか」「え?・・・」
  私は彼女が本気で言っているのか冗談なのか、少しのあいだ分かりませんでした。クルマは奇しくも職安の前を通ります。「あの、運転手さん、これが職安ですよ。公共職業・・・」と言いながら建物をみると、そこには大きく「ハローワーク」と書かれています。あ、そうか、 この運転手さんにとってここはハローワークであって、職業安定所という呼称は知らないんだなあ。
  「運転手さん、あのね、ハローワークは昔、公共職業安定所っていう名前でね・・・」私が説明すると、彼女は「あ、そうですか。勉強になりました。ありがとうございます。お客様は物知りでいらっしゃいますね」とルームミラー越しに微笑んだので、私はとても面映ゆい気持で笑い返しました。

・・・フィルムケース・・・
  正月、暮れにできなかった自分のオフィスの大掃除をしていたら机の中からフィルムケースが20個ほど出てきました。多分10年以上机に入っていたのです。昔は小さな電池が多くて、サンプルを送ったりするときにフィルムケースはとても重宝でした。が、今やわが社が取り扱う電池も大型となり、 フィルムケースに入るような可愛らしいサイズの電池はもうあまりありません。私は思い切って全部捨てることにして、空箱に入れて自室の前に置いておいたところ、20代の女性社員が「これ何ですか?きれいですね」と。
 「それはフィルムケースだよ」「フィルム?何のフィルムですか?」「え、カメラのフィルムだよ」「カメラのフィルム、ですか?」彼女は小首をかしげてこちらを見ています。

  カメラにフィルムを入れなくなってどのぐらい経ったのか・・・しかし、フィルムをカメラに入れることを知らない世代がこうやって社会人になって目の前にいるのは、現実感がなく、何とも不思議な気分です。「少しもらってもいいですか」「捨てようと思っていたんだ。全部持って行っていいよ」「わーい、 ありがとうございます」
  何に使うの?と聞いたらビーズを入れるんだそうです。高校生のころの同級生の女子生徒が同じことをしていたのを思い出して、ちょっと懐かしい気持になりました。銀塩フィルムとカメラについて説明しておこうと思いましたが、彼女はかかってきた電話に応対し始めたので、それっきりになってしまいました。 いつか説明しなくちゃいけないと思っています。

・・・急須・・・
 取引先の幹部の父上が90代で亡くなり、弔電を送りました。すると故人が静岡のご出身だということで香典返しにお茶を一袋いただきました。
  しばらくして、ある展示会でその幹部氏にお目にかかる機会がありましたのでお悔やみとお礼を申し上げました。「この度はどうも・・・それから、結構なお茶をいただきましてありがとうございます」私も妻もお茶が好きで毎朝欠かしません。いただいたのはお世辞でなくおいしいお茶でしたので、 私は心からお礼を申し上げたのですが、彼は「あ、初めてお礼を言っていただいたよ。うれしいなあ」とおっしゃいます。
 「香典返しは斎場のカタログからボクが選んだんだけど、もう家内にも子供たちにもボロクソに言われているのよ。なんでお茶なんか選んだんだって」
  私がキョトンとしていると、幹部氏はなぞなぞの答えのような言い方で「今ね、急須がある家ってすごく少ないんだって」とおっしゃいます。続けて「ちょうど親戚中が集まっていたから高校生の甥っ子に『お前の家に急須あるか』って聞いたら『キュウスって何?』って。ヤツの本家は静岡だぜ」

  ・・・ということがあった翌週、ある取引先で茶たくに乗った陶器の茶碗でお茶を出していただいた(ちなみにわが社は紙コップです)ので、出してくれた女性に「ちゃんと淹れていただいたお茶ですね。おいしいです」と言ったら「実はティーバッグなんですよ」とちょっと恥ずかしそうに答えます。 すると目の前に座っていた取引先の20代(と思われる)男性社員が「え、お茶ってティーバッグ以外の淹れ方があるんですか」と真顔で上司の方に聞きます。
 「ちゃんとだったら急須で淹れるんだよね」
 「キュウス・・・ですか」
 「あれ、君の家には急須無いの?そもそも急須って知らない、とか?」
  「キュウス、ですよね。知っていますよ。バンジ・・・のアレですよね」
バンジ、急須?・・・「万事休す」かぁ。爆笑。

  ・・・ところで、あの時の車中での会話が気になったので調べたところ、「八重洲」という地名の由来は、江戸時代に徳川家康に仕えたオランダ人のヤン・ヨーステンという人物名が由来だということです。私は「八重の桜」のお八重さんあたりが関係あるのかなとぼんやり思っていましたが、 しょっちゅう使う言葉なのに迂闊(うかつ)なものです。
  でも逆に、あのタクシードライバーの女性は江戸にさかのぼる「八重洲」の由来はちゃんと知っていて、われわれにとっては常識ともいえる「職安通り」のそれは知らなかった。今はスマホをひと撫ですればすぐに正解にたどり着ける時代、人にものを聞くときにちょっと躊躇することが多くなりました。なのに、 会話の中で無邪気に自然に「職安通りって面白い名前ですよね」と問いかけてくれた人懐こさがとても可愛らしく、そしてどこかツンと懐かしく思えて印象的でした。夕方の新宿通りでタクシーを止める時、また彼女だったらいいなと思うことがあります。 (了)



「老いた電池売りの独白」...フューロジック代表・田中景が、日米で40年近く電池の営業をしてきて思う、電池の現在過去未来、営業とは、国際感覚とは、そして経営とは、、を綴った連載です。


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