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エピソード037 <電池と巡り合ったころ(前編)>

    1983年の年末、26歳の私は、 派手な黄色いハンテンを着て横浜の家電量販店のテレビ・ ビデオ売り場に店員として立っていました。デンキ屋は「 雰囲気が第一。お客様の購買意欲を盛り上げよう」 という精神論大好き店長の指示で、 私たち店員はみなネクタイの上にハンテンを着せられていたのです 。 「ハンテンでモノが売れるわけないじゃん」・・・ 私は冷めた気持ちで、ハンテンの上に「専門相談員 田中(景)」 という大きな名札まで付けられてフロアに立っていました。  そもそも店で「待つ」 しかできない店員稼業が性に合わないのは最初から分かっていまし た。だからお客様には申し訳ありませんが、内心「 なぜこんなことやっているんだろう」 という気持ちで接客していたのです。   なぜこんなことやっているんだろう・・・その数年前、 高校を卒業して、なにしろ人と違う生き方をしたかった私は、 大学受験をせず配管工見習いになりました。 知り合いに総合商社系のイラン天然ガス採掘プロジェクトを教えら れ「これだ」と応募し、イランで仕事をすることにしたのです。 一人前の配管工になれば現地に数年間行き、 学校や病院の建設で働ける。「 あっちではお金の使いようがないから、 3年も行ったらまとまった額の貯金ができる」と言う話でしたが、 国内の現場研修を重ね、 パイプレンチの扱い方も一丁前になった1978年、 イラン革命が起きました。宗教家と民衆が蜂起し、 親日的だった国王は追放されて、あっさりプロジェクトは中止。・ ・・外国に行けないのだったら重労働の配管工なんてまっぴら、 すぐにやめました。電気店の店員は、だから「仕方なく」「 とりあえず」の職業で、誇りもやりがいも感じていませんでした。 お酒を覚え麻雀にはまり、 とんがっていた青年もみるみる愚痴っぽいサラリーマンになってい きます。今思えば「配管工もイヤだけど店員もイヤ」 という辛抱のない若造だったのです。   ・・・「今、電話があって、Mさんのビデオ、 また録画時間が短くなっちゃったんだって。 後でお店に来るってよ」裏でタバコを吸って売り場に戻ると、 同僚が私にメモを渡します。Mさんはポータブルビデオ一式( ビデオカメラ+ビデオデッキ+カバン・電池など。 私の月給が手取り15~ 16万円のころ一式60万円ぐらいでした) を買ってくれた私のお客さ