エピソード044 <ブラインドトラスト>

  数年前、取引先のイギリス支社長であるスコットランド人の方とお話しさせていただいた時の話です。その会社のイギリス支社は当時非常に好調で、設立から数年で日本の本社に匹敵するほどの売り上げを上げていました。なぜ、そんなに早く実績を積み上げることができたのかストレートに聞いたところ、 支社長は「馬のように働いたから」と笑いました。私が「本当?」という顔をしたので彼は「本当だよ。自分でもなぜこんなに働けるのか不思議だったけど、この数年、ほとんど週末も休まずに働くことができた。自分自身、そんなに勤勉な男だとは思っていなかったんだけどね」と言って、その時のことを思い出すように、 懐かしそうに遠くを見るような目をしました。

  そして「やっぱり、Kさん(日本の本社の創業者でグループのオーナー)が自分を信じてくれたからかな。ロンドン支社設立の時、支社の口座に30万ポンド(当時のレートで約6000万円)振り込んで、支社長とはいえ、 採用から数カ月しかたっていない自分に自由にアクセスできるようにしてくれたんだ。30万ポンドを持って逃げることだってできたけど、人間、あのようにブラインドトラスト(盲目的に信用)されると悪いことはできないね。逆に一生懸命頑張って口座の残高を増やそうと思ったもんだよ」

 私が欧米人の口から、この「ブラインドトラスト」という言葉を聞いたのはそれ一回きりです。が、非常に印象的な言葉だったので、私はその後何回か使わせてもらいました。
  あるとき、やはり会社を経営しているアメリカ人に「社員をブラインドトラストして・・・」と言ったところ、彼は人差し指を左右に振りながら「ノー、ノー、それは犯罪への招待(crime invitation)だよ」と即座に否定しました。

  タナカさん、考えてごらん。私はもちろんウチの社員をすべて信用している。でも、だからと言って、会社の会議室の机に100ドル札を置いて1週間放っておいても無くならないとは言い切れない。社員の誰かがおカネに困っていれば、誰も見ていなければこっそり持っていくやつもいるだろう。 見つかれば犯罪者だ。でも、最初から会議室に100ドルが置いていなければ彼は犯罪者になることはなかった。どこに社員を犯罪者にしたい経営者がいるだろうか。トラストはいい。ブラインドはダメ。そんなもの犯罪の動機を作るのに加担しているようなものだ。

  水原一平通訳の賭博・横領問題が報道されたとき、私はこの2つの会話を思い出しました。大谷選手は水原氏をブラインドトラストしていたのだろうか?だから結果的に犯罪を招待してしまったのだろうか。だとしたらアメリカ人経営者が正しく、スコットランド人支社長は有能だけど、 ちょっとセンチメンタルでナイーブなのかもしれません。
 でも、心情としては「大谷選手が水原氏を犯罪の誘惑にさらしてしまった」とは考えたくはない。大谷選手に悪意を感じないからです。でも、悪意はなかったとしても結果的に・・・と私の心の中のアメリカ人経営者が大声で叫んでいます。

  そんなことを考えていたら、数週間前、偶然あのK氏(スコットランド氏の会社の日本のオーナー)と話す機会がありました。今やあのイギリス支社はその会社を支える大きな柱で、スコットランド氏は本社の役員でもあります。 私はアメリカ人社長の「犯罪への招待」論や水原通訳のケースなども織り交ぜながら聞いてみました。
「・・・ロンドン設立時、Kさんは彼を本当に『ブラインドトラスト』したんですか?」
するとKさんは「ブラインドトラスト?アイツがそう言っていたの?」と逆に尋ねながら、 こんな話をしてくれました。

  オレだって30万ポンドをロンドンの銀行に預けて、アイツに口座の権限持たせて帰ってくるのはめちゃくちゃ心配だったよ。本当はあと2か月ぐらいロンドンに残って支社開設の経費の支払いを済ませてから帰ってきたかった。あの頃は日本からインターネットバンキングで払うとかできなかったし。だけど、 そのとき親父が死にそうだったの。あと何日もつかっていう感じだった。だからね、ホテルで考えたの。明日、日本に帰るっていう日、心配そうな顔して振り向き振り向き帰ってくるよりも、アイツを呼んでちゃんと目を見て「お前を信じているから頼むな」って言った方が裏切られないと思ったんだよ・・・そう? ブラインドトラストね。アイツがそう言っているならあの時のオレの方やり方も間違いじゃなかったんだろうな。結果的にアイツを信じてよかったとは今は思っている。それどころか、こんなに会社に貢献してくれるなんて予想していなかった。アイツは本当に頑張ったと思う。でもあの時は・・・アイツには悪いけど、 感覚的には大きなギャンブルだった。
  ギャンブルといえば、もしアイツが水原一平みたいなヤツだったとしても俺には見抜けなかっただろうし、カネを盗られていたかもしれない。だから、ビジネス上のリスク回避を思えば、アンタがさっき言っていた100ドル札のアメリカ人社長の方が正解かも知れない。 水原通訳だって大谷選手の銀行口座にアクセスできなければ、こんなことにならかったかもしれないし。でも、アイツは横領も着服もしなかった。小さくない誘惑があったはずだけど、アイツはしなかった。ブラインドトラスト?結局、受け止め側の良心の問題だろうな。

  「・・・でもね、Kさんは6000万円、水原通訳が盗ったのは24億円。ちょっとスケールが違いますよね」と私が軽口をたたくと、「いや、大谷選手にとっての24億円は、大金だけど無くなっても死ななくてもいい金額だろう。あの時のオレの6000万円は銀行からようやく借りた虎の子。 盗られていたら会社はつぶれていただろうな。だから『裏切らないでくれ!』と心の中で祈っていたよ」と胸の前で両手を合わせてみせ「オレ、実は見かけよりもチイサイ男なのよ」と自嘲的に笑いました。
 そして一息ついてから「・・・にしても、ブラインドトラスト、ね。いい言葉だね。オレはチイサイから無理かもしれないけど、でも死ぬまでに一回できるといいね。そんな心から信じられるヤツに出会ってみたいよね」
  Kさん、もう出会っているじゃないですか。そう言おうと思ったのですが、Kさんがなぜか急いで「ところでさあ」と話題を変えたので、結局言うことができませんでした。

  ・・・それがブラインドトラストだったかギャンブルだったかは、実はあまり意味のない議論なのかもしれません。Kさんと別れて駅に向かう道、私は何度もつぶやいていました。
 ブラインドトラスト?結局、受け止め側の良心の問題だろうな。
  人が人を信用するとき、信じる側だけでなく、信じられる側にも覚悟が必要なのだと思います。時には、とても大きな覚悟が。 (了)



「老いた電池売りの独白」...フューロジック代表・田中景が、日米で40年近く電池の営業をしてきて思う、電池の現在過去未来、営業とは、国際感覚とは、そして経営とは、、を綴った連載です。


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