エピソード040 <バッテリージプシー>

  確かにアメリカは日本より転職が多いと思いますが、実質的なクビも多いんです。特に営業職は数字が上がらないとかなりドラスティック。もちろん、何回か「なぜ売り上げが上がらないのか」言い訳を聞いてもらえるチャンスがありますが、3ストライクでアウトが普通です。すると対象の社員はどういう行動をとるか・・・大半が2ストライクぐらいで転職活動を始めます。で、転職先が見つかり辞表を提出。こういう場合は「辞めた」というべきか「クビ」というべきか・・・多額の給料で華やかに引き抜かれることよりも、実際はこういう微妙な転職が多いのです。もちろん給料が下がることだってあります。

 で、彼らはどこへ行くかというと、現職と全然関係ない企業に行くことはまれで、同じような製品を扱っている企業に転職することが多い。培ってきた専門知識も生かせますし、なにより、現職で築いた人間関係を駆使して顧客企業にアプローチもしやすい。まあ、平たく言うとお客さんを盗みやすいですからね。電池業界だとプレーヤの数が少ないので、この傾向がますます強い。この前までウチで営業をやってたアイツ、先月からあのライバル企業に移ってウチのお客さんの○○社にちょっかい出しているんだってよ。あの野郎・・・という話は珍しくありません。
 そんな時、よく使われた言葉が「バッテリージプシー」です。そうか、アイツもバッテリージプシーになっちゃったんだなあ。ウチに来たときは電池のデの字も知らない奴だったのに・・・。

 1984年に電池業界に入ってから、私は何人ものバッテリージプシーを送り出し、受け入れ、競い合い、協力してきました。それでも、1999年までは自分自身がジプシーになるとは思っていませんでした。ところがこの年、考えてもみなかった理由で私はそういう流れに引きずりこまれていきます。
 当時私が所属していたのは三洋電機の代理店で、私はアメリカ現法の営業責任者をしていました。ですからセルは三洋の米国現法に売っていただく(この表現が適切でした)わけです。当時はアナログ携帯電話、いわゆるセルラーフォーンの全盛期で、ほぼすべての電話メーカーが同じようなサイズのニッケル水素電池を使用していたので供給が全く追いつきません。どの電話メーカーも「電池待ち」の端末在庫が積みあがっている状態でした。
 この頃、アメリカ市場ではノキアとモトローラの2強がセルラー市場を席巻しており、私が担当する日本メーカーはアメリカで4位と6位。それでもひと月十万本単位の電池が必要です。当然、私たちは三洋USAに電池の供給のお願いをひたすら繰り返していました。
 そんな中、私はたまたまある顧客企業の玄関でばったりパナソニックの米国人セールスと会いました。彼はその数年前まで三洋USAに勤務していたバッテリージプシーの一人で、三洋時代から旧知でした。彼は私に近寄り「5分だけ話ができるか?」と聞きます。私がうなずくと「タナカさんの会社は今、三洋から電池が入ってこなくて苦労しているんじゃないか」と聞いてきます。
 「そうだけど、でも、今はどこの会社も同じような状況だろう?」
 「いや、タナカさんのところが最もひどい扱いを受けてるって話だ。ノキアやモトローラは三洋がセルを出荷しないと他のメーカーに切り替える。タナカさんのところは三洋の代理店だから他に切り替えることができない。つまり納期を遅らせても浮気できない。だからお宅に出荷する予定のセルをどんどんよそに出荷しているらしい」
 私は驚き、情報の出元を聞いてみました。すると彼はあっさり現職の三洋USA副社長(米国人)の名前を出します。こうして古巣と情報的につながっているジプシーは珍しくありません。「ボクで役に立つことがあったら電話をくれ」と彼は私の肩をたたきました。

 彼の話はおおむね事実でした。ウチ向けというラベルを貼られた電池が他社に出荷されているのを突き止めたのです。私はジプシー氏に電話をしました。情報ありがとう。君の言いなりになるようでシャクだけど、やっぱり私はウチのお客さんを守らなければならない。君が日本に情報が洩らさないことを約束できるなら、君からパナソニックの電池を買おう。まずサンプルを1ケース。そして10万本、見積もってくれないか。
 今、イオン電池ではこういう安易な「置き換え」はできませんが、ニッケル水素の時代はお客様さえOKであれば可能なこともあったのです。
 こうして私は本社に内緒でライバルから電池を仕入れます。ジプシー氏には重ねて口止めをしました。「バレたらお互いのディスアドバンテージだぜ」・・・しかし翌年、東京の某企業の賀詞交歓会で、パナソニック本社の幹部がウチの役員に「お礼」を述べたことからあっさり発覚、「どこの代理店だと思っているのか」「いや、現地のお客さんも守らなければならない」激しい口論の末、私には帰国の辞令が出ます。私はアメリカ駐在のまま退職を決意しました。当時は『バッテリージャパン』全盛、私も一応バイリンガルの電池屋ですから仕事探しに苦労はなく、シカゴの電池アッセンブラーに転職することになりました。

 が、そこではパナソニックの電池が主力でした。数週間前まで散々こき下ろしてきたパナソニックの電池をクライアント企業にお勧めするのは「過去の発言との整合性」が取れなくて苦労したものです(あの時パナソニックの電池を仕入れたのは致し方なかったのです)。「オレがパナの電池を売ることになるなんて・・・」当時の三洋は電池の巨人、絶対的ナンバーワン。代理店勤務とは言え私には「三洋陣営」というプライドがあったのですが、もはや三洋はライバル、遠い存在になっていました。
 気がついたら、自分がジプシーになっていました。

 その後アメリカで起業したり、日本で起業したりして24年が過ぎました。2000年に「オレがパナの電池を・・・」と嘆いてから、数年後には「え、ウチが韓国製の電池を・・・」「ウチが中国製の電池を・・・」と、『バッテリージャパン』が中韓に追い越されていきます。2011年に三洋が実質的に消滅し、2017年にはソニーが電池事業を譲渡。そういうことが起きるたび、たくさんの電池関連の方が日本でポジションを失うことになりました。
 しかし・・・電池には言葉にできない魅力があるのだと思います。彼らの多くはジプシーになって電池業界に残りました。私がアメリカで見てきた転職ジプシーとは別の種族ですが、ビジネスを多面的に見る(複数の企業の観点を持っている)能力は一緒です。業界人としての横のつながりも強い。
 不幸にして日本のプレゼンスが消えかけてしまった産業に「半導体ジプシー」「液晶ジプシー」のような存在があるとはたえて聞きませんが、バッテリージプシーたちは今も多くの企業で活躍しています。今、私どもにとっては頼もしい仲間たちです。
 ただ、彼らにも(私にも)引退の時期が近づいてきているのも事実です。そのあとの電池産業はどうなっていくのか・・・。今、経験豊富なジプシーが次のステージを探したとき、狭くなってしまった日本の電池のフィールドに居場所はもう多くないでしょう。
 だから、ジプシーでいられた私たちは幸運だったのかも知れません。白髪交じりになったジプシー仲間と酒を酌み交わすとき、『バッテリージャパン』ということばがノスタルジックに聞こえることがあります。 (了)



「老いた電池売りの独白」...フューロジック代表・田中景が、日米で40年近く電池の営業をしてきて思う、電池の現在過去未来、営業とは、国際感覚とは、そして経営とは、、を綴った新連載です。


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