エピソード038  <電池と巡り合ったころ(後編)>

 「Kと申します。ビデオフロアの田中さんをお願いします」

 彼と会ったことを忘れかけたころ、外線から電話がかかってきました。

 「お電話ありがとうございます。田中は私です。思い出しました。電池でご相談がおありなんですよね」

 見てもらいたいものがあるから横浜駅西口の事務所に来てほしいということで、私は指定日に各社のポータブルビデオのカタログを持って出かけました。こういうときはハンテンを着なくてもいいので、少し解放されたような気がします。指定されたビルに着くとK氏はエントランスで待っていました。連れて行かれたのは事務所ではなく2階のレストラン。挨拶を終えると、彼はある企業の会社案内を私の前に置きました。知らない社名でした。

 「二次電池と言ってね、充電できる電池を専門に扱っている商社なんだけど、田中さん、興味ないかな。電池の基礎知識がある人を探しておられるんだけど」

 考えていたことと現実との間のギャップに、私はカタログを入れた茶封筒を持ったまましばらく何も言えずにいました。引き抜き?

 「・・・電気屋さんの店員がいけないっていうわけではないけど、ああいう仕事って若いうちだけだと思うよ。お給料も高くないと思うし。それに、土日にきちんとお休みがある仕事の方がいいでしょう?」

 土日が休みでないというのは不便でした。ちゃんとしたガールフレンドができないのも休みが合わないというのが大きな障害でしたし。

 「田中さん、年齢は? 大学は出ているんでしょう?」

 「26歳です。大学は行っていません」大学受験しなかった話、配管工になったら革命が起きて仕事がポシャった話を正直に話しました。すると彼は難しい表情になり「高卒かぁ」とつぶやきました。高卒が問題で、なぜ高卒なのかはあまり関係ないという感じです。

 「田中さん、じゃあ、こうしてくれませんか。ウチに来ている求人票は大卒が条件になっているんだけど、もし、あなたが転職したい気持ちがあったら履歴書を送ってください。私は企業さんに『高卒だけど電池に詳しい人がいる』って言ってみるから」テレビコマーシャルをガンガンしている人材紹介会社のロゴが入った名刺を私に差し出しました。

 呼び出されて、土日休みと給料アップの夢を見せられて、そして高卒の店員という自分の現在地をこっぴどく知らされただけでした。私は履歴書を送りませんでした。


 年が明け、そんなことがあったことも忘れていました。Mさんとはますます仲良くなり、旅行仲間の方を何人も紹介してくれるようになっていました。そのころ(1983~1984年)はカメラとデッキがくっついた「カメラ一体型ビデオプレーヤ(後に『カムコーダー』と呼ばれるようになる)」のまさに黎明期で、カメラとデッキをバラバラに購入したMさんは「早く買いすぎたかな」と後悔しながら、それでも友達と来店してくれるのでした。

 「それでさ、(VHSの)A社からはまだ一体型は出ないの?」

 「そうなんです。一体型は今のところB社だけ。でもテープがVHSじゃないから・・・」

 「最初からベータにしておきゃよかったかなあ」私の心も痛みます。

 「ウチはベータだから問題なし。田中さんから電池も長持ちすることも習ったし、あとはカミさんを説得してベータの一体型を買うよ!」とお友達。Mさんは苦笑いです。

  VHSかベータかは電気店では入り口の議論でした。店員の私は得意客の家がどちらであるかを把握していましたし、あのあと、A社のビデオ事業部の技術者とは直接電話できる関係になっていたので、Mさんのいろんな質問を通じて私の電池に関しての知識はどんどん増えていました。弱くなってしまった電池を復活させるには定期的な充電だけではダメ、「捨て放電」と言って一度エネルギーを捨ててやること。こうすると電池が「活性化」される。「捨て放電」には別売りのライトが便利。私はMさん用にA社から「捨て放電」用ライトを1台もらってあげました。 Mさんは「田中さんは勉強家だね。助かるよ」と言ってさらに頻繁に来店してくれました。

 ゴールデンウイークのころ、商談テーブルでMさんといつものようにそんな話をワイワイしていたとき、後ろから視線を感じました。K氏が立っていました。


 母子家庭だったので、私の周りにはそういうことを相談できる「大人」がいませんでした。今考えると不見識な話ですが、私はMさんに相談しました。すると「真剣に考えた方がいいよ。そりゃお店から田中さんがいなくなったら僕たちは不便だけど、田中さんの人生を考えたら移った方がいいような気がするよ」Mさんは一気に言いました。さらに熱っぽく「商品を勉強して、僕らお客に伝えてくれているところを見て、その人は田中さんを評価してくれたんでしょう?そんな機会、もう無いかもしれない。寂しくなるけど、僕は面接を受けた方がいいと思う」


 いつもの商談テーブルで、また田中がMさんと仲良く長話をしている・・・誰も店員とお客さんが転職の相談をしているとは思わなかったでしょう。履歴書を送ると数日で面接日の通知が来ました。それは2週間ほど先でしたので、私は電池の勉強をしておこうと思いました。「大卒しか採用しない企業だけど、田中さんの話をしたら『会ってみよう』と言ってくれたんだよ」というK氏の恩着せがましい話を聞かされていたからです。面接で大卒よりも優れたところを見せたい。そう思って、数日図書館に通いました。ネットが無い時代ですから情報までの距離は遠い。しかし勉強してみれば電池は実に面白い。ガルバーニのカエル、ボルタの電池、プランテの鉛、ユングナーのニカド、ニカドは1.2V、鉛は2V、世の中の製品に6V/12Vが多いのは1.2Vと2Vの最小公倍数だから・・・実際、こんな付け焼刃は面接では役に立たなかったのですが、私はその二次電池の商社に採用され、ハンテンを脱いで背広を着ることになりました。27歳になっていました。


 入社1年後、私はC社という企業の営業担当になりました。先輩が急に退職してお鉢が回ってきたのです。C社はVHS方式で一体型ビデオプレーヤ・・・この頃は「カムコーダー」と呼び名が変わっていました・・・に新規参入する直前で、あのA社・B社のコンペティターになろうとしていました。巡り合わせとは本当に面白いものです。私は量販店の売り子から、カムコーダーの電池パック開発最前線に立つことになったのです。

 それからの3年ほどは毎日成長を感じる日々でした。ちょっと前までの(あの退屈だった)売り場経験に、工場の技術も購買も耳を傾けてくれます。そして、土日休みになったことが功を奏したか、私は結婚することにもなりました。年賀状で報告するとMさんは機材を背負って横浜から駆けつけ、披露宴を撮影してくれました。


 またC社では、偶然歴史的な光景を見ることにもなりました。ある時、ちょっとした不良を出して工場裏の倉庫で検品作業をさせられていた時、積み上げられていた製品にかかっていたブルーシートがパラリとずれ落ち、隠されていたビデオデッキの個装箱が見えました。B社ブランドでした。私は目を疑いましたが、ブランドロゴの横に大きくVHSのロゴが・・・ベータの雄が敗北を認めVHSに乗り換えた(B社ブランドのVHSデッキをC社がOEMで生産開始した)瞬間を私は見たのです。白いヘルメットをかぶった倉庫作業員が慌ててブルーシートをかけなおしていました。・・・その数日後、B社は正式に記者会見をして、VHS参入を表明しました。Mさん、VHSにして正解でしたね!

 しかし、カムコーダーの電池ではB社のニカドが生き残り、A社もほどなく鉛からニカドに乗り換えます。そういう変化の一つ一つに理由があり、それを間近で見るのは楽しいことでした。まだニッケル水素もリチウムイオンもない、それから40年電池の世界で生きていくことになるとは想像もしていない、私が電池と巡り合ったころのお話です。 (了)



「老いた電池売りの独白」...フューロジック代表・田中景が、日米で40年近く電池の営業をしてきて思う、電池の現在過去未来、営業とは、国際感覚とは、そして経営とは、、を綴った新連載です。


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