エピソード031 <10人の議論より・・・>
皆さん、「熟考」していますか?
私は最近、「熟考」どころか「考える」ことも激減していることに気づきました。30代40代の頃は、朝、自分のデスクに座るとその日の段取りを「考え」て、自分で優先順位をつけてから仕事をしていたと思います。電車に乗っても、ラーメンを注文して待っているときも何かを「考え」ていました。「熟考」ができていいアイディアを思いついたこともあったと思います。
でも、最近はすっかり考えなくなってしまいました。朝出勤してきて「メールチェックして返信して」、お客さんがいらしてお帰りになって「メールチェックして返信して」、ランチに行って戻ってきて、WEB 会議を終えて、部下と打ち合わせをして「メールチェックして返信して」・・・来たメールに順番に返信して、聞かれたことをしかるべき相手に質問して、そうして時間が過ぎていきます。メールが作業(仕事とも言えない)の起点になっていて、メールが来ないとボーッとしてしまう。小一時間の打ち合わせから戻って「わ、もう20通もメールが入っている」と悲鳴を上げながら実は喜んで返信をしています。次に何をするのかを自分で「考え」なくてもいいのでうれしいのです。
思えば、ムカシは生活の端々に隙間時間があって「考え」ることができました。今はこの隙間時間にスマホが入りこんできて、みんな隙間時間を感じなくなっています。電車に乗ったらまずスマホ。ラーメンを注文して待っているときもスマホ。食べながら画面にスープを飛ばさないように気をつけながら、それでもまだスマホをしまおうとはしません。
会議でもスマホは手放せません。電池の世界では頻繁に新しい用語が出てきます。「電動ペデスタル」「バーチカルAGV」・・・すぐスマホで検索。「それ、何ですか」と聞く人はいません。私がスマホをズボンのポケットからゴソゴソ引っ張り出している間に「あ、これかぁ」とあちこちから声があがります。どんなものかを想像したり単語の意味から「考え」ることは誰もしません。スマホは、デジカメと電卓と腕時計と、公衆電話と地図帳とさまざまな辞書と、ウォークマンと文庫本と週刊誌と新聞とお化粧用のコンパクト鏡その他を存亡の危機に追いやっただけではなく、人間から隙間時間と想像力を奪ってしまったようです。
でも、人間がその気になって「考え」ようとすれば、スマホがあろうと無かろうと、いつでもどこでも「考え」られるはずなのですが、なぜみんな隙間時間に考え事では無くスマホを見るようになったのでしょうか。
私は、それは「考える」ということがある種の苦痛だから、だと思います。
たとえば、今、私が自分の会社について「考え」るとすると、たくさんのことを心配しなければなりません。資金、売上、粗利、人事、3年後、5年後・・・心配は心配を呼び、心配Aを解決しようとすると、より大きい心配Bが浮上します。
心配は苦痛です。ため息が出ます。エーイもう考えるのやめよう。やめないと気がおかしくなりそうだ。ま、なんとかなるさ・・・と、なんとなくスマホを出してニュースをザッピングしたりしています。それがすむとPCを開いて、だれかから返信すべきメールが届いていないか確認したりします。考えるという苦痛から逃げているのですね。私たちはこういう受動的な日常と戦わなくてはならない。スマホが無かった10年前、PCが普及していなかった30年前に確かにあった「隙間時間に考える」という「当たり前」を取り戻さなければならない。
今号のタイトル、<10人の議論より・・・>に続く言葉、もうお分かりになったでしょうか。偶然通りかかった地方の神社の日めくりに書かれたこの言葉を、最初ちらっと見て、通り過ぎて、また戻ってもう一度見てしまいました。
10人の議論より1人の熟考
これは決して、民主的な合議のプロセスよりも独裁国家の方が・・・という意味ではありません。形式的な議論から生み出される「結論」は、一人の人間が考え抜いて絞り出した「結論」に劣ることが多い、ということだと思います。
一生懸命考えたアイディアをもって会議に臨みたいですね。時間になったからとりあえず会議室に座り、たいしていいとも思えない結論に「みんなで話し合って出した結論だから」というアリバイに逃げて唯々諾々と従う・・・そうではなく、会議前にスマホを置きPCを閉じて、今日のテーマについて集中して1分「熟考」してみましょう。そう、1分。
やってみたら1分て結構長いんですよ。そしてしばらく使っていなかった脳のどこかの部分が、じーんわりと動いている感覚が確かにありました。(了)
「老いた電池売りの独白」...フューロジック代表・田中景が、日米で40年近く電池の営業をしてきて思う、電池の現在過去未来、営業とは、国際感覚とは、そして経営とは、、を綴った新連載です。
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