エピソード021 <らんばあ>

8歳で東京から転校した東北の田舎の小学校は「別の国」でした。昭和40年、この地方では今ほど「標準語」が市民権を得ておらず、標準語は国語の教科書の中の言葉で、会話はこの地方特有の方言でされていました。だからしばらくの間私は誰とも会話が続かず、 かなりの割合で学校の先生の話も理解できませんでした。

そんな私に方言を教えてくれたのが「らんばあ」です。いつも下校ルートの雑貨屋の奥の座敷に腰掛けてお茶を飲んでいて「アキラちゃん、今帰りだがぁ?母さんはどしてるのぉ?」東京から転校してきた私が珍しかったのか、よく声をかけてくれるのでした。

らんばあ・・・当時70歳ぐらいのおばあさんで名字は桜庭さん。桜庭のばあさんだかららんばあ。戦争でご主人を亡くし子供もなく、遺族年金で暮らしていました。いつも地味な着物を着て、草履を履いて前屈みでスタスタと町中を歩き回ります。 家族のいない彼女があり余る時間でやっていたのが「世話焼き」・・・今で言うマッチメーキングです。

彼女の世話焼きで特筆すべきは、徹底した家庭環境のリサーチです。両方の家の舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)の性格や財産の多寡、親戚にヤクザがいないかなどなどをあちこちで聞き取りをするのです。 それは今なら完全に行き過ぎの調査方法でした。その上おしゃべり。ですかららんばあを疎ましく思っていた人もたくさんいました。現に私の母は、私が学校帰りにらんばあと話をしていることを知ると「家の中のことをぺらぺらしゃべったりするな」と厳しく叱責しました。母は離婚していたので、 そのあたりのゴタゴタを話題にされるのがいやだったのでしょう。

が、私はらんばあとウマが合いました。雑貨屋の座敷で毎日開かれているお茶っこ飲み(おばさん、おばあさんが数人集まってお茶を飲みながらとりとめの無い話をする集まり。 大抵真ん中にどんぶり大盛りの白菜漬けが置かれている)に学校帰りの私を招き入れ「きょうはどんた話だばいい(きょうはどんな話をしようか)?」と方言のレッスンが始まります。方言を方言で説明するので一筋縄ではいかないのですが「教えたい」と「覚えたい」という共通のベクトルでなんとかなります。 たまにらんばあから「これ、東京の言葉で何て言うの?」という逆質問があったりして、私たちは仲良しになっていきました。私から聞く東京の話は、東京に行ったことがないらんばあには新鮮だったのだと思います。

しかし、だんだん友達ができて方言も理解できるようになると、 らんばあとは疎遠になっていきました。他人(よそ)の家の年金支給額まで把握しているおしゃべりなおばあさんですから、みんなに煙たがられていて、私も話しをしにくくなっていったのです。同級生たちも親から言われていたようで、道の向こうかららんばあが歩いてくると別の道に逃げ込む小学生もいました。私は、 方言の先生であり仲良しだった彼女に後ろめたく感じながら、結局お茶っこ飲みにもいかなくなりました。らんばあも、私を見ても声をかけなくなっていきました。私は、なぜらんばあは嫌われてまで世話を焼くのかなあ、と不思議に思っていました。そんなことをしなければいい人なのに。

何ヶ月かして、 あるとき駅の売店で週刊少年マガジンを買って、そのまま待合室のベンチで読んでいると、突然、隣にらんばあがすっと座りました。私はちょっと身構えましたが、らんばあは、前を見ていれば自分と話をしていることがわからないから、返事をしないで前を見ていなさい(まるでスパイ映画です)と言って、 自分も前を見たままでこんな話を始めました。

「母さんにらんばあど話をすなどごしゃがれたんだべ。悪ぃがったなぁ(お母さんにらんばあとは話をしてはダメだと叱られたんでしょう。わるかったね)。だばって、らんばあだばナンも悪ぃごとしてねがら、何て言われでもいいのし。(だけど、 らんばあは何も悪いことをしていないから何を言われてもいいの)

(続きは標準語で書きます)・・・百姓衆も鉱山で働く人たちも商売人も、世の中の男の人は朝から晩まで一生懸命働いていて、自分でお嫁さんを探してくるなんてできないでしょう。だからめいめい釣り合った家を見つけて、 あとで夫婦別れをしないような世話焼きをしなければならないの。だからみんなからいろんなことを聞かないといけないの。

・・・このとき戦後たった20 年、大人の世界にはまだ「産めよ増やせよ」の残滓があり、独身でいることや子供がいないことはこの地方では異形でした。しかしそのころのこの町では、 男女が自力で出会う機会は限りなくゼロに近かったのです。

らんばあが続けます・・・アキラちゃんは片親で大変だけど、大きくなったららんばあが丈夫で働き者で子供をたくさん産んでくれるお嫁さんを探してくる。らんばあはたくさんの人を知っているから大丈夫。らんばあが頑張らないとみんな結婚できないし、 子供が産まれない。人が少なくなるとまた戦(イクサ)になったとき国を守れない。この間みたいに負けてしまうでしょう。負けた時みんな泣いたのよ。らんばあもたくさん泣いたの。だかららんばあは何を言われても大丈夫。世話焼きは、頼まれなくても誰かがやらなければならないことだもの。 でないと働いてばかりいる男の人は結婚できないもの・・・ちょっとのあいだ仲良しだった8歳の私にそこまで言うと、らんばあは目を合わせないように立ち上がって、どこかに行ってしまいました。


この年(昭和40年・・・1965年)に日本で産まれた赤ちゃんは182万人。それからどんどん減って、昨年(2022年)は80万人を下回ったのだそうです。1952年までは200万人を超えていたので、 産まれてくる赤ちゃんは70年で1/3になってしまいました。

今年も元日に分厚い新聞が届き、あいかわらず「今年の課題」として「少子高齢化問題」が書かれています。子育てパスポート、子育てクーポン、出生給付金 ・・・しかし、問題は「非婚化」なのです。「出産減少」「少子高齢化」よりも先に「非婚化」を何とかしなければなりません。イクサになったら「国が守れない」と言ったらんばあの危機感と使命感は、まさに「非婚化」に対するものでした。 どれほど疎まれても「誰かがやらなければならないこと」と彼女は信じていました。

正月、まるで当事者意識が感じられない無味無臭の新聞記事を読んでいて町中を前屈みでスタスタ歩き回るらんばあの姿が思い出されました。確かに問題があるやり方ではありましたが、 彼女のような人たちが「非婚」を食止めていたのでしょう。あのころ、日本の人口は何もなしに自然に増えていたわけではなかったのだと思います。(了)



「老いた電池売りの独白」...フューロジック代表・田中景が、日米で40年近く電池の営業をしてきて思う、電池の現在過去未来、営業とは、国際感覚とは、そして経営とは、、を綴った新連載です。

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